バルセロナから出港し、地中海を周遊するブルーオーシャンズ号はレストランやカフェ、
娯楽施設や病院に至るまで多彩な施設とアクティビティーを完備した
街ひとつを丸々船に乗せたような巨大な客船だ。
更に客室もあらゆる贅を尽くしたまさに豪華客船である。
そんなブルーオーシャンズ号の中にあるオペラハウスでは
今回の周遊の目玉とも言えるイベント『歌姫姉妹』による公演が行われていた。
イタリアから周辺国に置いて人気を博す『歌姫姉妹』にはこのような噂があった。
その天使の如き歌声を聞いたものは幸せになれる――――――
噂が噂を呼び、誰もが幸せを求めてその歌声を聴きたがった。
しかし、そのような歌声は存在しないのだ。
何故なら、その歌声を毎日聞いている俺…歌姫姉妹の片割れである俺にはそれが…
『幸せ』はいつまで待っても訪れないからだ。
ブルーオーシャンズ号での初公演の夜の部が始まった時だ。
舞台上で弟であるフェリシアーノとともに満員の客たちの前で
歌声を披露していると、ふと視線を感じてそちらに視線を動かした。
公演中であるから皆の注目が集まるのは分かるが、
その視線はそれとは何かが違っていて気になったのだ。
大勢の客の中から注意深くその視線の主を探す。
じくりと焼けるような熱さの中に、激しい何か。
それでいて甘やかな優しさを堪えているような…――――――
(あ…)
たくさんの人の中から仄暗い会場から
キラキラと輝く綺麗なペリドットの宝石のようなみどりの瞳を見つけた。
ロヴィーノの視線とかち合ったその視線の主はロヴィーノを見つめて
ひどくゆっくりと、優しげに目を細め口元を綻ばせた。
「…っ!?」
何だ今の。
すぐさま目線を外したロヴィーノは動揺を隠し切れなかった。
じりじりと焦がされたかと思えば、あんな。
あんな愛しいものを見るような瞳で優しく微笑まれたら…――――――
――――――?
たら?
だったらなんだというんだ。馬鹿馬鹿しい。
なんで男に微笑まれただけで動揺してんだ、アホか俺は。
隣に立つ弟が気遣わしげな視線を寄越すが、
ロヴィーノは無視をして歌に集中することにした。
その胸に火傷のようなじくじとした痛みにも似た感情を押さえ込みながら。
*
「お疲れさま、にいちゃん!ねぇ、このあと皆で打ち上げするみたいなんだけど
兄ちゃんどうする…って、あれ?兄ちゃん?!」
どこ行くの?!という弟の声を振り切り、暫く一人にさせろと言って展望デッキに出た。
デッキに出ると海風に煽られ着せられていた真紅のドレスの裾がはためいた。
今が夏といえど海上は風が強い。更に夜とくれば剥き出しの肩がふるりと震えた。
白い手摺りを掴み、真っ暗な海を眺めながら小さく呟いた。
「還りたい、か…」
オペラの中のロヴィーノが演じる孤独な少女の台詞だ。
こんな海の中へ飛び込むなんて、流石に無理だな。
真っ暗だし、こえーし。
それに、こんな真っ暗な海の中じゃ余計に孤独だろう。
ふるりと寒さを訴える体に、手摺りに肘を突き、両手で二の腕を摩った。
舞台の最中、見つけたあのペリドットの瞳をふと思い出した。
途端にかっと身体が熱を持ったようで頭を振った。
(だからっ!なんで…っ)
あんな視線如きで動揺してるんだ、と頭を抱えそうになったところで
ふいに肩を誰かに抱かれた。
「…寒そうだね?こんなところで一人でいないで中で俺と一杯呑まない?」
バチンとウインクをしてきた金髪の男にロヴィーノは口元を引き攣らせた。
(うわぁ、なんかキタ…!)
肩を抱く手を払いのけ、ツンと横を向いて距離を取るが男は直も食いさがってきた。
「そんな冷たくしないでさ。なぁ、いいだろう?」
(何がいいんだ!なにが!)
男が伸ばしてくる手を避け身を逸らすも、ぐっと手首を掴まれた。
「なぁ、キミあのオペラハウスの『歌姫』だろう?
ファンサービスだと思ってさぁ…」
お前みたいなにわかファンにするサービスなんかねーよ。
という内心の声は音に出来ずに男のあまりのしつこさに辟易していると、
目の前の男とは違う手が、ロヴィーノの後方から伸びてきてその細い腰を引き寄せた。
とんと背中に感じる熱に、顔を上げた。
「俺のツレになんか用?」
ロヴィーノの腕を掴んでいた男の手を叩き落し、
ロヴィーノを抱いたままにっこりと笑みを浮かべた男はロヴィーノの見開いた瞳に気付いて
ペリドットの瞳を優しく細め、そっと耳打ちをした。
「俺に合わせて」
少し訛りのある口調だが、耳に心地いい声が耳を擽り、思わずドキリとした。
ペリドットの瞳であの時の客だと気付いて思わず素直に身を預けてしまうと
ペリドットの瞳の男…アントーニョはもう一度そっと耳打ちする。
「そう、えぇ子」
男の手が掴んでいた方の手を取りアントーニョは見せ付けるように
手の甲にキスをして、再び男に視線を向けると男はチッと舌を打ってその場を立ち去っていった。
*
男が立ち去るのを見届けてからロヴィーノは眉間に皺を寄せ、
ペリドットの瞳の男の手を振り払い、身を捩じらせて腕から抜け出した。
そしてきょとんとした男を下から睨み上げた。
「助けてくれなんて頼んでねーからな」
だから礼なんて言わないぞという意味でそういうと男はへらりと笑った。
「うん、ごめんなぁ。あ、俺アントーニョ言うねん。キミはさっきの舞台に出とった
赤の歌姫……“ロヴィーナ”やろ?さっきの舞台もめっちゃ良かったわー!
俺な、『歌姫姉妹』の舞台好きやねん。こんなとこで会えると思わへんから
つい声かけてもーた。ごめんなー?でも嬉しいわ」
ペラペラと勝手に喋りながらにこにこ笑ってるアントーニョという男を
無視して背を向けて歩き出すが、アントーニョっはその後ろを追ってきた。
「この間のバルセロナでの公演も見に行ったし、イタリアのローマ、ナポリ、
ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、あとこの前はフランスのパリ公演も
仕事のついでに見に行ったし、ほんまめっちゃ好きで、二人のファンやねん」
まぁ、そんなにたくさん見に来てくれていたの?ありがとう、嬉しい!
…なんて言うとでも思うのか?馬鹿じゃねーの。
馬鹿弟ならそういうかもしれねぇけど、良かっただの、好きだの言われても
俺は全く嬉しくない。
(俺は好きで歌っているわけじゃない)
それに…どんなに好きと言われてもそれは舞台での“ロヴィーナ”であって
俺自身を好きなわけじゃない。
そもそも、本当の俺は…――――――あんな綺麗なモノじゃない。
(つーか、コイツいつまでついてくる気だ!?)
先程からデッキをぐるぐる歩き回っているが、全く立ち去る気もないようで
聞いてもないことをペラペラと喋り続けている。
普通これだけ綺麗に無視されたら怒るか、立ち去りそうなものだろう。
だというのにこの男は全く堪えてないし、気にもしてないようだ。
正真正銘の馬鹿か…鈍感なのか、ただのKYか…ほんとなんだコイツ。
こんな男に一瞬でもドキリとした自分が阿呆らしい。
なのに…あの瞳が気になって仕方ない。
(なんでこんな男に…!クッソ…なんかムカツク!)
「めっちゃえぇ舞台やったし、二人の歌声聴いたら幸せになれるってほんまやな!
俺、今めっちゃえぇ気分やもん」
アントーニョのその言葉に立ち止まって、くるりと振り返って口の端を上げた。
「ハッ!お前も本気で歌聴いただけで幸せになれるなんて信じてんのかよ。
あんなのただの噂だ。…それがうちの劇団の宣伝文句なんだよ」
その噂もでっち上げられた嘘なのに、
人々は面白いように騙されて、勝手に熱を上げて、金を積み上げる。
本当に馬鹿だ。自分達が天使の歌声と称えるそれの片方は
“天使”にも程遠いものだというのに。
アントーニョから真っ暗な夜の海へと視線を逸らした。
今宵は新月。星空の明かりだけではこの蒼い海を照らせないようだ。
潮風に乱れる髪を押さえながら、思う。
今、俺がこの船から飛び降りても俺はあの子のように
受け入れられることはないだろう。
「…そうかもしれんけど、でも俺は赤の歌姫の歌声、好きやで」
「!」
思わずアントーニョに向き直ると、あのペリドットの瞳が優しく微笑んだ。
息を呑む俺にアントーニョは手を伸ばしてロヴィーノの額に張り付いた髪を
そっと耳にかけた。
その仕草があまりにも自然で、抵抗なく受け入れてしまった。
「風邪引くからそろそろ中に入ろ?お腹も空いたしなー…せや、一緒にご飯食べにいこ!」
そうしよう、さぁ行こう!とぐっと肩を抱かれ強引に歩き出すアントーニョに
面食らいながらも、流石に抵抗した。
「おい!誰も行くなんて言ってねーぞ!」
「五階にある展望レストラン、俺と一緒やったら入れるで?」
(なっなんだと…!?)
スイートルーム以上の上客だけしか利用できないあの五つ星レストラン…!
食通のセレブたちをも唸らせる極上の料理が味わえると噂の…!
「し、…しょうがねーな!どーしてもつーなら付き合ってやらねぇでもねーぞ!」
「ほんまー?ほな行こか!」
滅多に入れないレストランなこともあり、今後もこんな機会があるとは思えなかったので
メシ食うだけならいいだろとさっさと頭を切り替えた。
自分の食欲には忠実なロヴィーノだった。
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