あの夜以来、公演の合間にアントーニョはロヴィーノを連れて船内のレストランで食事をしたり、
バーラウンジで酒を呑んだり、野外のリラクゼーションスペースでのんびり過ごしたり
かと思えばフットサルで共に汗を流したりとあらゆる施設を巡って楽しんでいた。
アントーニョは自分に対して遠慮のない物言いをするロヴィーノが
逆に親しみを持って接してくれているようでとても気に入っていた。
恐らく自分がかなり上客であることに気付いているはずなのに
アントーニョのことを詮索しようとしない。
何か強請ったかと思えば大抵は食べ物で、それを美味しそうに頬張る姿は
舞台の上で美しく妖艶な歌姫を演じているとは思えないほど幼い子供のようで可愛らしかった。
ツンとした態度を取ってみせたり、
かと思えば悪戯っ子のような小生意気な表情をして見せたり
くるくると表情を変えるロヴィーノを見ているのがアントーニョは好きだったし、
そうして時折触れたら消えそうなほど悲しげな表情で海を見つめる横顔を見つけると
穏やかではいられないほど心を掻き乱され、
腕に閉じ込めその存在を確かめずにはいられない衝動に駆られた。
何者にも執着しない、心を許すことのなかったアントーニョにとって
ロヴィーノの存在は確実に大きくなっていて、
それはアントーニョに初めての感情を芽生えさせた。
舞台上の歌姫ではなく、ロヴィーノ自身にアントーニョは恋心を抱いた。
もっと深く触れ合いたい。
他の誰かにではなく、自分の傍で笑っていて欲しい。
彼を自分のものにしてしまいたい…――――――。
そんな感情まで抱くようになってしまって、戸惑った。
それでもロヴィーノを想う気持ちは止めようがなく、加速した。
「…正直、もう歌うのやめてぇなって思ってた」
夜の公演の後、いつものように食事に誘い、
その後デッキに出て並んで夜空と海を見ているとロヴィーノがそう切り出した。
海風に乱れる髪を抑えながら遠くを見つめるロヴィーノのオリーブ色の瞳は伏せられ、
憂いを帯びたその仕草に胸が詰まった。
「どうしたってフェリシアーノの方が上手いのに、
それに合わせなきゃなんねぇーの、もう…疲れた。
嫌々歌ってたのにそれでも『天使の歌声』だもんな。笑っちまう。
でも、あの場所以外に俺の居場所なんかねぇの分かってるから、抜け出せねぇ」
胸に溜まった苦しさを吐き出そうとするかのようだった。
アントーニョは何も言わずに手摺りに置かれたロヴィーノの手に自分の手を重ね、
もう片方の手で腰を引き寄せ抱きこんだ。
ロヴィーノからの抵抗はなかった。
代わりに小さな呟きが零れる。
「…俺もこの海に飛び込んだらどっかに還れんのかな」
ゆっくりと海からアントーニョの方へと視線を上向かせたロヴィーノは何かを確実に期待していた。
それに堪えるように自分の唇をロヴィーノのルージュの塗られた唇に重ねた。
触れ合わせただけで直ぐに離すと、ロヴィーノは少し不満そうな顔をしたのに苦笑した。
『この海に飛び込んだらどっかに還れんのかな』
何が彼の心を曇らせるのか、その原因はアントーニョには心当たりがあった。
フェリシアーノへのコンプレックスも大いにあるが、
そこまで思い込むほどロヴィーノの歌がフェリシアーノより劣るとは思えない。
そうでなければ二人揃って『天使の歌声』などと大げさに称えられはしないだろう。
フェリシアーノこそが本物であり、ロヴィーノはそのおまけでしかない、などと
そうやってロヴィーノを追い込んでいる人物の存在があるからだ。
オーナーはフェリシアーノに歌わせることにより、歌劇団の名を知らしめ、
そしてロヴィーノを利用して金持ちから多額の寄付金を得て私腹を肥やしているのだ。
ふつふつと湧き上がる怒りを押さえ込み、アントーニョは口を開いた。
「――――――でも、ロヴィは歌うの好きやろ」
「へ?」
「それさえ嫌いやったらここまで歌ってへんやろ?とっくに逃げ出しとってもおかしくない。
でも、ロヴィーノはまだここに居る。それって、歌うの自体は嫌いやないからやろ?」
確信を持ってにっと笑うとロヴィーノは複雑そうな顔をした。
「フェリちゃんのこと気にしすぎや。無理に合わせる必要ないやん!
ロヴィにはロヴィにしかないもんがある。
もっと自由に歌ってみたらえぇよ」
ロヴィーノに嵌められた見えない枷が少しでも緩くなったらいい。
そんな思いで言った言葉だった。
それを聞いたロヴィーノはアントーニョの腕の中で身動ぎ、胸に顔を寄せた。
「…知ったふうにいうな、クソが。……あ、あり…がと」
小さな声で礼を言うロヴィーノが心底愛しくて堪らなかった。
このクルーズが終わったら全くの疎遠になってしまうのだろうか。
いいや、そんなの堪えられるはずがない。
ロヴィーノに卑怯だと誹られてもいい。
どうしても、ロヴィーノを自分の傍に置きたくなってしまった。
*
最終目的地であるイタリアのベニス到着まであと三日。
それはいつしか恋い慕うようになってしまった
アントーニョとの別れの日が近いということ。
このまま船を降りてしまえば全く関わりあうことがなくなってしまうかもしれない。
そんなのは嫌だ。けれど、ロヴィーノにはどうすればいいのか分からなかった。
何しろ相手は確実に自分よりも上流階級の人間だ。
住む世界が違いすぎるし、そんな相手に恋をしたところで
上手くいくとは到底思えなかった。
なら潔くこのクルーズの間だけの真夏の夜の夢と忘れてしまえばいい、
などと割り切れるわけがない。
アントーニョがどう思っているかは分からないが、
彼にこのクルーズの間だけの戯れで忘れられるようなそんな軽いものにはなりたくなかった。
自分の気持ちを包み隠さず伝えよう。
アントーニョなら例えば色いい返事は貰えずとも
冷たく突き放すようなことはしないだろう。
(アイツはそういうやつだ…)
アントーニョの優しい笑顔を思い出してふと小さく笑みが零れた。
昼の公演が終わり、夜の部が始まるまでのフリーの時間に
ロヴィーノはアントーニョを探して船内を歩いていた。
大体いつもひょっこり現れるくせにその日に限って待っていても来なかったからだ。
仕方なくロヴィーノの方が探しに出たのだが、
アントーニョがどこにいるかなどわかるはずもなく、
そういえばどの部屋に泊まっているかも聞きそびれていたことに気がついて立ち止まった。
「俺…アイツの名前以外何にも知らねぇ…?」
そこに一抹の不安を覚えたものの、
会ったら直接聞けばいいと思い直して再び一歩歩き出した。
休憩用のベンチが並ぶ廊下を歩いていると柱の影で
アントーニョが誰かと話をしているのを見つけた。
今声をかけるのはまずいかと思い、少し離れたところで終わるのを待とうとしたが、
聞き覚えのある声に気付いて目を疑った。
「――――――フェリ、シアーノ…?」
柱の影でまるで密談でもするかのようなフェリシアーノとアントーニョの姿に、
ロヴィーノは頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を覚えた。
二人が何を言っているのかは聞こえないが、
フェリシアーノはアントーニョの言葉に瞳を潤ませ、俯き、そして少しの間をおいて
アントーニョの手を両手で握り微笑んだ。
そんなフェリシアーノに、アントーニョはしっかりと力強く頷いた。
ロヴィーノはそんな二人の様子を見ていられずに慌てて踵を返し、
極力足音を立てないように立ち去った。
(なんだ、あれ…)
今目の前で起きたのは一体何だろう。
あれではまるで…――――――愛し合う者同士が手に手を取り合って…。
そう、恋人同士の密会…?
そうか、あの二人…ほんとは…そういう関係なのか。
じゃあ、俺は?俺のことは…――――――?
いいや、違う。アントーニョは一度だってロヴィーノ自身のことを好きだとは言わなかった。
恋人じゃないんだ。本命は別にいたっておかしくないじゃないか。
だからそれが、フェリシアーノであったとしても…――――――。
「…あぁ、なんだ。アイツもそうなんだな」
何勘違いしてたんだろう。馬鹿だな。
いつだって耳に心地いい言葉をくれていたのはやっぱりフェリシアーノの兄だからだろうか。
自分にだけ特別優しいなんて思い上がりもいいところだ。
だから他人と関わるのは嫌なんだ。
こうやっていつも現実をつきつけてくる。
『所詮フェリシアーノのおまけ』
フェリシアーノがいなければ存在する価値もないのだと。
知ってる、分かってる、忘れてなんかいない。
自分の部屋に飛び込むように入るとそのまま扉を背に座り込んだ。
「やっぱり、俺には還る場所なんてどこにもないんだ…」
涙が幾筋も頬を伝い、込み上げる悲しみを抑えることが出来ずに声を上げて泣いた。
こんなふうに一人黒い海に投げ出されて藻掻き苦しむのなら
いっそ本当に溺れてしまえばいい。
深く沈み込んでもう何も感じないようになればいいのに…――――――。
*
ドアを背にそのまま泣き疲れて眠ってしまっていたロヴィーノは
背後のドアを乱暴に叩く音に目を覚ました。
部屋に備え付けられた時計の針は夕方五時を指していた。
(ヤバイ…――!開演時間…っ!)
着替えて舞台用のメイクをするのも結構な時間がかかるのだ。
どんなに遅くとも一時間前には入っていなければ他の役者やスタッフに迷惑がかかる。
慌てたロヴィーノの耳に再びドアを叩く音がする。
あまりに遅いので誰かが呼びに来たのだろう。
ロヴィーノはドアの向こうにいるのが誰であるのか確認もせずに焦るままにドアを開いた。
「――――やっと出てきたか、ロヴィーノ」
苛立ちを滲ませた低い声に背が強張る。
恐る恐る見上げた先にいた人物を確認してロヴィーノは乾いた唇を震わせた。
「……オーナー……」
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